ビットコインのトレードをメインに扱っている当サイトですが、今回はお金の歴史から
「私たちがトレードしているものはそもそも何なのか?」
という根本的な理解を深めていこう、というテーマで記事を書いてみました。
お金の歴史を知ると、仮想通貨(暗号資産)や世界で使われている円やドルに対して今までと違った見方ができるようになります。特に近代で起こった金本位制の撤廃は注目。
是非よく読んでみてください。
- 【紀元前|古代】物々交換から物品貨幣へ
- 【紀元前|縄文/弥生】金属貨幣が現れる
- 【7~8世紀|奈良/飛鳥時代】日本でもっとも古いお金
- 【11~12世紀|平安時代】商品貨幣の時代
- 【12~13世紀|平安~鎌倉】渡来銭の普及
- 【14~15世紀|室町時代】 商品経済と銭貨普及
- 【15~16世紀|安土桃山時代】貨幣経済の浸透
- 【16世紀|戦国時代】領国貨幣と金貨の登場
- 【17~18世紀|江戸前期】貨幣の統一(三貨制度)
- 【18世紀|江戸後期】金銀貨の改鋳とインフレ
- 【19世紀|幕末】 不平等条約と金貨流出の危機
- 【明治初期】貨幣制度の混乱と円の誕生
- 【明治後期】紙幣価値下落と日本銀行誕生
- 【明治~大正】金本位制の確立
- 【昭和(戦前)】世界恐慌と金本位制の崩壊
- 円やドルの価値はどうやって担保する?(ニクソンショック)
- 貨幣の歴史についてのまとめ
【紀元前|古代】物々交換から物品貨幣へ
大昔の古代人は、自分の物と他人の物とを交換して欲しいものを手に入れていましたが、物々交換ではお互いの希望が容易に一致しないことも出てきました。
そこで、
- 誰もが欲しがるもの
- 収集・分配でき、誰もが納得できる価値の大きさを表現できるもの
- 持ち運び・保存できるもの
これらの条件を持つ、布・貝殻・穀物・砂金などが交換手段として使われるようになりました。
これが物品貨幣といわれるものです。中国の殷・周の時代には、宝貝が物品貨幣として使用されていました。
お金に関係のある漢字に貝のつくものが多いのはそのためです。
漢字の中でお金や財産のことを表す「財」「貯」「買」「貨」などの文字には、どれも「貝」という字が使われています。これは、古代の中国で貝殻がお金のかわりに用いられていたからでした。
【紀元前|縄文/弥生】金属貨幣が現れる
やがて物品貨幣のなかでは、金属(とくに金、銀、銅)が他の物に代わって広く用いられるようになりました。
金属は貨幣として優れた性質をもっていたためです。
世界で最初に作られた世界最古のお金、エレクトロン貨は今から約4,500年前のメソポタミア文明で現トルコのリディアという国で誕生しました。
当時は硬貨がいくらなどではなく、金や銀の重さによって価値が決まっていました。
紀元前8世紀頃になると、中国でも農具、刃物をかたどった布幣や刀幣などが造られるようになりました。
【7~8世紀|奈良/飛鳥時代】日本でもっとも古いお金
飛鳥文化:渡来人たちが活躍し、中国、ギリシアの影響もみられる国際性豊かな時代
中国では西暦621年に「開元通宝」という優れた貨幣が造られ、これが遣唐使などによって日本に伝えられました。
この開元通宝をモデルにし、和銅元(708)年に造られた「和同開珎(わどうかいちん)」が日本最古の貨幣とされていましたが、さらに古い7世紀後半に造られたとされる「富本銭(ふほんせん)」が奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で見つかりました。富本銭は以前にも平城京跡や長野県高森町などで出土していましたが、まじないに使われた銭として考えられていました。富本銭が日本最古の貨幣かどうか、さらに研究と調査が進められています。
日本ではじめて製造された金貨は天平宝字4年(760年)に製造された開基勝宝(かいきしょうほう)です。
これは発掘されたのが32枚のみで重要文化財に指定されて一般のコレクターには流通していません。
日本は世界の先進国に比べると貨幣の誕生が遅いですね。
皇朝十二銭(古代銭貨)と貨幣の衰退
708年の和同開珎以降、250年の間に12種類の貨幣が造られました。朝廷が発行した貨幣という意味で、これらは「皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)」と呼ばれています。
政府は皇朝銭を広く民衆に使わせようとしましたが、その流通範囲は主に近畿地方に限られていました。また、銅不足から貨幣の質が落ちたため民衆の銭離れが起こり、政府の力も弱体化したため、958年には皇朝銭の鋳造は中止されました。
皇朝十二銭以後、約600年間は、公的な貨幣が造られなくなり、日本は再び「物品貨幣」の時代に逆戻りしました。
【11~12世紀|平安時代】商品貨幣の時代
桓武天皇が現在の京都府に平安京を建て都を移す~鎌倉幕府が成立するまで。
藤原道長など貴族が活躍した時代。
この間、日本では価値が安定した米や絹・麻布が銭貨の代わりに貨幣として使われ、モノの値段をあらわす安定的な価値基準として、銭貨に代わる役割を果たしました。
支払いを命じた書類が現在の小切手・借用書のような役割を果たしました。
【12~13世紀|平安~鎌倉】渡来銭の普及
源頼朝が平家を滅ぼし政治の実権を握った年から、後醍醐天皇の命により、新田義貞によって鎌倉幕府が滅ぼされた1333年の期間。
10世紀末からの約200年間、日本では米や絹などの物品貨幣中心でしたが、平安末期になると、農業生産力の向上や経済の広域化により、金属貨幣に対する需要が高まり、中国等との貿易を通じて流入してきた貨幣(渡来銭)が日本国内でも使われるようになりました。
銭貨は1枚=1文の価値をもつ貨幣として使われ、13世紀には銭貨の使用が人々の間で浸透し、当初銭貨を認めていなかった鎌倉幕府や朝廷もその使用を認めました。貨幣としての役割は、それまでの米や絹・麻布から銭貨に置き換わっていきました。
日本では、16世紀まで国家が貨幣を発行しなかったので渡来銭だけでは貨幣が不足し、室町時代になると私鋳銭(鐚銭 – びたせん) が大量に造られました。
13世紀以降、人々は年貢を銭貨で納めるようになり、それまで年貢として納められていた生産物は市で商品取引されるようになり、商品経済が発達しました。
日本は中国が使わなくなった貨幣をリサイクルしたんですね。
【14~15世紀|室町時代】 商品経済と銭貨普及
足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼした3年後の1336年に足利尊氏が征夷大将軍となり幕府を開き、織田信長によって、足利十五代将軍の足利義昭が京を追い出され室町幕府が滅亡した1573年まで。
畿内や諸国をつなぐ都市で地域の名産品などが盛んに取引されるようになり、「有徳人」と呼ばれる裕福な商工業者も現れました。
こうした商品経済の発展とともに、国内での銭貨需要が増大し、明(中国)との交易で銭貨を輸入していましたが、銭貨流入の減少をうけて、国内では渡来銭をまねた模鋳銭が造られるようになりました。
また、14世紀前半に後醍醐天皇が銭貨「乾坤通宝」の発行を計画したが、建武の新政の失敗で頓挫しました。
【15~16世紀|安土桃山時代】貨幣経済の浸透
織田信長によって、十五代将軍の足利義昭が京都を追放されてから、1603年に徳川家康が江戸に幕府を開くまでの期間
15世紀後半以降、商品流通の発展により国内の銭貨需要はさらに増大しました。
日本や明(中国)で私的につくられた模鋳銭・私鋳銭の流通により、銭貨は種類や形状により区別されるようになります。
銭種による価値の差が生まれ、国内の銭貨流通は混乱。幕府や大名は、銭貨流通の円滑化のため、撰銭令を繰り返し出しました。
貨幣経済の浸透により、信用取引も発達。14世紀初~16世紀初にかけて「割符(さいふ)」と呼ばれる手形が隔地間での送金・支払手段に流通しました。
【16世紀|戦国時代】領国貨幣と金貨の登場
1467年、室町幕府将軍の失政によって応仁の乱という大乱が勃発~豊富秀吉による関東平定(1590年)までとする説や、徳川家康が1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開くまで、など複数意見がある。
16世紀に入ると、商工業の発展にあわせて貨幣の需要が増大し、戦国大名は軍資金の調達や家臣への報奨物として競って領内の金銀鉱山を開発し、独自の金銀貨を鋳造するようになりました。
貨幣制度の構築を目指し、織田信長は撰銭令を出し、そのなかで高額取引や軍資品の売買は金銀の使用を基本とし、銭貨との交換比率を定めました。
甲州金は、「両・分・朱」という4進法の貨幣単位を採用し、江戸時代の金貨単位に引き継がれました。
これらの領国貨幣は、その後江戸時代までの約150年にわたって流通しました。中でも豊臣秀吉が諸国の鉱山を掌握し鋳造させた恩賜・贈答目的の「天正長大判」は世界最大の金貨として有名です。
天正長大判は武家同士の儀礼などで使用され、社会的に浸透し的な位置づけとなりました。
【17~18世紀|江戸前期】貨幣の統一(三貨制度)
徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた年から、徳川15代将軍の徳川慶喜が大政奉還により、幕府としての権限を朝廷に返上した年までの期間
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は貨幣制度の統一に着手し、金銀山の支配を進め、貨幣製造の技術・体制を整備し、慶長6(1601)年に慶長金銀貨を発行しました。
銭貨については、寛永13(1636) 年に新たに「寛永通宝」が造られ、寛文10(1670) 年には渡来銭の通用が禁止され、貨幣制度は完全に日本独自のものになりました。
この金・銀・銭、3種の異なった貨幣からなる貨幣制度を「三貨制度」といいます。
一方、17世紀初め頃、伊勢山田地方の商人の信用に基づいた紙幣(山田羽書 )が出現し、やがて各藩でも領内で通用する藩札(紙幣)が発行されるようになり、幕府による三貨制度と、各藩における紙幣の分散発行、石高制(コメが価値の基準)社会が併存するという、江戸時代独特の幣制ができあがりました。
三貨制度の体系図(1700年頃)
江戸幕府は、金・銀・銭貨それぞれを独立した価値を持つ貨幣として発行。金貨(小判・一分金など)は、額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣でした。
●金貨(計数貨幣)…1両=4分=16朱
●銀貨(秤量貨幣)…1匁=10分、1000匁=1貫(貫目、貫匁)
※秤量貨幣の単位「匁」は、重量の単位そのもの(1匁=約3.75g)
●銭貨(計数貨幣)…1000文=1貫文
各地で土地面積や穀物を量る升(ます)も統一基準を使った検地を実施したことで、全国各地の大名の領地を石高で計測する事が出来るようになったからです。
また、幕府の運営に重要な年貢を払ってくれる農民に貨幣経済が浸透することを防ぐ狙いもあったようです。
以降、江戸時代は「石高制(こくだかせい)社会」とも「米遣い社会」ともいわれ、米が価値の基準となる社会でした。これだけ経済が発展している中で米払いなんて中々特殊ですが、理由があるのですね…。
この頃、コメ相場が発展しプロの相場師も現われて日本で最初のトレード技術が生まれました。
紙幣の発生と藩札の流通
秤量銀貨の釣り銭代わりに発行された山田羽書(小額銀貨の預り証)が、紙幣として流通したことを皮切りに、各藩の財政赤字補填や小額貨幣の不足を補うことを目的として藩札が現れました。
幕府は次々藩札抑制策を採ったが実効性をもたず、円滑に流通した藩札があった一方、乱発により価値が下落した藩札もありました。
【18世紀|江戸後期】金銀貨の改鋳とインフレ
18世紀後半、元禄(江戸後期)になると、農村での換金作物生産の普及や幕府財政の悪化に対処し、慶長金銀に比べて含有量の質を落とすなどの改鋳をおこないました。
貨幣の改鋳はたびたびおこなわれ、当初は上手くいっても後に偽造の増加や貨幣価値の下落(インフレ)など問題が生じ貨幣制度は乱れていきました。
幕末にかけて、財政窮乏を補うために行われた文政・天保の改鋳によって慢性的なインフレとなっていき、人々の生活を苦しめたといいます。
たしかに、まとめている私も混乱してきているので、当時の人々の気持ちが分かってきました。
正徳・享保の改鋳により小判の質を上げたり、元文の改鋳、文政・天保の改鋳、万延の改鋳で再び質を下げたりして流通量を調節し経済を回していましたが、基本的にはインフレしていき幕府の財政は徐々に悪化していきました。
特に有名な両替商には鴻池(こうのいけ)、三井、住友があります。このうち三井・住友はそれぞれ現在の大手銀行グループへ発展しました。
定量銀貨・計数銀貨の登場
江戸幕府は、1765年、公定相場(金1両=銀60匁)で金貨と交換させる定量の銀貨単位の計数貨幣「明和五匁銀」、1772年には金貨単位の計数貨幣「明和南鐐二朱銀(8枚で小判1両に換える文言がある)」をそれぞれ発行しました。
幕府の両替商への積極的な貸付などもあって、19世紀前半には計数銀貨が全国的に流通するようになりました。
【19世紀|幕末】 不平等条約と金貨流出の危機
1858年、日本は米国・英国・ロシア・オランダ・フランス5カ国との間に不平等条約として知られる修好通商条約を結び、同じ種類の貨幣は品質に関係なく同じ重さで通用することが定められました(「同種同量の原則」)。
翌年、開港による金貨流出を懸念した幕府は、開港日の前日、天保一分銀より純銀量が多い安政二朱銀を発行し、洋銀1ドル=二朱銀2枚で交換させようしたが、アメリカの反対によって阻止されました。
日米和親条約(1854年)で、元々洋銀1ドル=一分銀1枚でしたが、「同種同量の原則」により洋銀1ドル=一分銀3枚とされ、日本はアメリカの都合のいい様にやられたというわけです。
金貨の大量流出
当時の金銀の価格は、日本が金1g≒銀5g、外国では金1g≒銀15gで、日本では金が割安であったため、日本から海外へ金貨が大量に流出してしましました。
外国商人は、日本で洋銀(4枚)→一分銀(12枚)→小判(3枚)に換金した後に海外で小判を交換すると洋銀(12枚)を得ることができ、なんと三倍の儲けとなりました。ボロ儲けですね!
1860年、万延の改鋳で純金量を1/3に減らし金銀比価を国際水準としたことで、海外への金貨の大量流出は抑えましたが、発行された万延二分金は、幕府財政の補填のため大量に発行され、物価は更に上昇し、貨幣制度は明治維新期にかけてますます混乱しました。
【明治初期】貨幣制度の混乱と円の誕生
幕末の黒船来航後の開国・戊辰戦争を経て新政府が樹立され、都が京都から江戸・東京へと移った。
明治新政府は当初、通貨制度を整備するまでのゆとりがなかったため、幕藩時代の金銀銭貨や藩札をそのまま通用させる一方、通貨不足解消のために自らも太政官札や民部省札などを発行し、さらには民間の為替会社にも紙幣を発行させました。
このため、各種通貨間の交換比率が非常に複雑になり、また偽造金貨、紙幣も横行するなど通貨制度は混乱をきわめました。
新貨条例と円の誕生
新政府は貨幣制度の統一を目指して、明治4(1871)年に「新貨条例」を制定しました。金貨を貨幣の基本とし、単位も「両」から「円」にあらため、10進法を採用するというものです。もっとも本位貨幣である金貨とは別に外国との貿易用に貿易銀として1円銀貨を通用させたので、金本位制をうたいながら実質的には金銀複本位制が採られていました。
そして明治5(1872)年に、政府は旧紙幣を回収し、流通している紙幣を統一するために、新紙幣「明治通宝」を発行しました。ドイツの印刷業者に原版製造を依頼したことから、この新紙幣を「ゲルマン紙幣」とも呼びました。
「明治通宝」に偽造が多発したことから、政府は明治14(1881)年にデザインを一新した改造紙幣を発行しました。日本最初の肖像画入りの政府紙幣で、神功皇后の肖像が描かれています。肖像の作者はイタリア人だったため風貌は外国女性風になっています。
政府は貨幣制度の統一を目指す一方で、近代的な銀行制度の確立をしていくために、アメリカのナショナルバンクをモデルに明治5(1872)年に「国立銀行条例」を制定しました。この条例にもとづき、全国で153の国立銀行が設立され、これら国立銀行には、一定の発行条件のもと、紙幣の発行権が付与されました。
当初発行された国立銀行紙幣(旧券)は、政府がアメリカの会社に製造を依頼したものだったので、当時のアメリカ紙幣と類似していました。明治10(1877)年には寸法や図柄が一新された紙幣(新券)が発行されました。
当時主流だった1両や1ドルを1円に統一したため、スムーズに新貨幣への両替が進み、円滑に円を中心にしたお金の単位の移行が行われました。
当時は1円は非常に高価で、1円の10分の1の銭や100分の1の厘(りん)が庶民で馴染みのある単位でしたが、その後日本経済が発展していくにつれてインフラが進み、錢や厘の単位が1955年に廃止され円に統一されました。
このことから当時の1円は、現在の2万円ぐらいの価値に相当します。
そうすると「1銭」が、現在の「200円」となります。
あんパンが1個1銭、うどんは2銭でした。ビールの大瓶は19銭=約3800円で高級品でした。
【明治後期】紙幣価値下落と日本銀行誕生
明治政府は、民間銀行に兌換銀行券を発行させ、殖産興業資金の供給をはかるため、「国立銀行条例」を制定(1872年)。これにより国立銀行(民間銀行)が設立され国立銀行紙幣が発行されたが、事実上不換紙幣でした。
政府は、西南戦争(1877年)の戦費を不換紙幣の増発でまかなったため、膨大な紙幣が流通するようになり、紙幣価値は約半分に大幅に下落しました。
日本銀行の誕生
この激しいインフレを収束させ通貨価値の安定をはかるため、明治15(1882)年に中央銀行としての日本銀行が設立されました。
最初の日本銀行券「大黒札」は、紙幣価値の回復を待って、開業から2年半後(1885年)に発行されました。日本銀行券は、本位貨幣(正貨)である銀貨と交換できる兌換銀券でした。日本は蓄積していた正貨が銀だったので、金ではなく銀本位制となりました。
日本銀行券は円滑に流通し、1899年末に全て置き換わりました。
【明治~大正】金本位制の確立
日露戦争後、世論が政府を動かす時代となり、大正デモクラシーによる普通選挙が実現した。
1890~1910年代、欧米先進国は銀本位制から金本位制へと移行し、日本も金0.75g=1円とする「貨幣法」を制定し金本位制を確立しました。
日本銀行券はそれまで「日本銀行兌換銀券」だったが、金貨と交換(兌換)できる「日本銀行兌換券」になった。
1914年に始まった第一次世界大戦による大戦景気により日本銀行券の需要は高まりしました。
【昭和(戦前)】世界恐慌と金本位制の崩壊
第二次世界大戦での敗戦から、過酷な戦後復興など激動の時代となった。
終戦の1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。
ニューヨーク・ウォール街での株価大暴落(1929年)をきっかけとする世界恐慌の影響で、イギリスをはじめ欧州各国は1931年に金本位制からの離脱に追い込まれました。日本も同年12月に銀行券の金貨兌換を停止し、金本位制をやめました。
その後、昭和17(1942)年の日本銀行法制定により、名実ともに日本銀行は兌換義務がなくなり、金本位制から管理通貨制度へ移行しました。
※アメリカドルだけは世界の基軸通貨として金の兌換性が保証されていました(ブレトンウッズ体制)。
管理通貨制度とは、正貨(金等)を準備して紙幣の額面価値を保証しなくても、最適と思われる通貨量をきめて、通貨量を管理・調整できる制度で、今日も政府・日銀によっておこなわれています。
「臨時通貨法」…戦時体制下の昭和13(1938)年には、通貨需要の増大に対処するためが制定され、金・銀・銅以外の新しい素材の金属によって補助貨幣が発行できるようになりました。
「新円切り替え」…昭和21(1946)年、日本は戦後激しいインフレに見舞われたため、新しい紙幣が出回るまでの間、応急処置として旧札に「証紙」を貼って使用しました。
ちなみに世界恐慌を引き起こしたのは伝説の相場師リバモアだと言われています。
円やドルの価値はどうやって担保する?(ニクソンショック)
ベトナム戦争の戦費でアメリカの財政は悪化し、1971年に金本位制を廃止する協定が結ばれ、金・ドル本位制と固定相場制(金本位制)の時代が完全に終了しました。(ニクソンショック)
じゃあ今の法定通貨はどうやって価値を保っているの?ということになりますが、これは「政府の信用」です。
政府が価値を保証しているので法定通貨は価値があります。
世界の主要国は紙幣の価値を金に担保する必要なく造幣することができるようになり、いくらでもお金を刷ることができるようになりました。
仮想通貨は発行数が最初から決まっており変更できません。加えてユーザー間のやり取りは全て記録されるので価値を担保となっています。
増え続ける法定通貨と比べ、ビットコインの価格はどうなると思いますか?
貨幣の歴史についてのまとめ
お金の単位は明治初期に作られた円が現在も続いていますが、今日ではネットマネーや電子マネー、クレジットカードなどお金は様々な形に変えて進化を遂げています。
まだ日本では現金決済が主流ですが、中国やアメリカをはじめ多くの先進国ではキャッシュレスが主流になりつつあり、日本も追従しようとしています。
おまけに2008年に誕生した仮想通貨・ビットコインの影響で今出回っている法定通貨の存在意義さえも変わろうとしています。
私たちを取り巻くお金は時代によってどんどん形を変えていくものだということがお分かりいただけたと思いますが、私たちはまるで明治維新のような激動の時代の渦中にいるのかもしれません。
コメント欄
勉強になるお話をありがとうございます。
価値保存の道具である通貨の歴史が同時にその価値毀損の歴史なのは皮肉な話ですね。
通貨乱発による価値毀損への対抗策が
資産家の金保有や、
ナカモト氏のビットコイン開発と発行枚数制限設定であり、
エルサルバドルでのビットコイン法定通貨採用であるということでしょうか。
金本位制があったころはまだ通貨の価値が担保されていたのですが、ニクソンショックからは国が好きなだけ刷ることができるようになりました。
経済が健全に発展するためには長い目でみて、悪手だったなと歴史が証明していますね~。、